1:海松房千尋
突然目の前に薄笑いを浮かべた三人組が現れた。
嫌な奴等に見つかった。きっと塾の帰りにこの道を通る事を知っていたのだろう。
「ようノビタ、今帰りかぁ?」
もちろん僕はノビタなんて名前じゃない。
「やめてよ、僕の名前は――」
いきなり突き飛ばされて尻餅をつく。危うく眼鏡を落としそうになったが、片手で押さえて、代わりにモロに尾骶骨を打った。
「誰がそんな事を聞いたんだよ? 今帰りなんだろ?」
下らない台詞をグダグダと並べ立てる三人組。
チクショウ。このままだと間違いなくお金を巻き上げられる。思ったところで即座に方針転換した。
立ち上がるフリをしてそのままダッシュして逃げたのだ。
「ノビタ! 逃げるな!」
言われてもこうなったら仕方ない。状況はどうせ最悪なのだ。
僕はとにかく走って走って、暗い夜道をひたすら走った。
何処をどう走ったのかもわからなくなった頃、追ってきた三人をまくため、そんな所にあった事すらしらない、今までみた事もない店に飛び込んでいた。
「いらっしゃい。何がお望み?」
一瞬何を言われたかわからなくなるほど、不思議な雰囲気の美しい女の人に声をかけられた。
思い出そうとしても、その時、僕は自分が何て言ったのかも思い出せないけど、何時の間にか泣きながら、色んな事を話していたと思う。
「ならばこれを持って行きなさい。きっとあなたの望みが叶うわ。もちろん対価はもらうけど」
これが始まり。
何を対価にしたのかも覚えていないし、何を望んだのかも覚えていない。
もらったものは、四〇ページほどの小さな絵本だった。
近くのマクドナルドで休憩しながらページを捲り、僕は、意識を失った。
「おじいさん! なんてことでしょう!」
「ばあさんや、なんてことだ!」
なんでしょう?
「ここは、どこ?」
僕は確かにそう言ったつもりだったけど、声に出せたのは言葉なんてものじゃなかった。
つまり、ただの泣き声。
「なんて嬉しい。きっと山の神様の贈り物じゃ」
「子のないわしらを哀れんでくださったのに違いない!」
身動きは出来ないし、寒いし(どうやら素っ裸になっている)体中がひりひりする。
匂いだけは何か果物らしい良い匂いがしているけど。
「おじいさん、この子の名前を決めましょう!」
「そうじゃな、この子は、そうじゃ、桃から生まれたから桃太郎じゃ!」
……状況を理解したいなんて思わなければよかった。
ついでに僕の運命も決まった。
異世界に召喚され、成長し、仲間を集めて魔王を倒す。
確かにそんな夢を見た事もあった。あったとも。
多分状況は同じだ。
そう。
勇者となるべく、僕は召喚されたのだ。
……だが、とりあえず泣いてもいいだろうか? いや、かまうものか。今の僕は本当に赤ん坊なのだ。
泣いてしまおう――。
……それからの数年間は、まるで夢のようだった。
優しい老夫婦は、血のつながらない僕を、愛情いっぱい育ててくれた。
貧しいけれど、それこそどんな苦労もいとわず慈しんでくれた。
二人は、本当の両親以上の親だったのだ。
しかし、僕は最初から知っていた。
いつか僕は元の世界に帰らなきゃいけないってこと。それからその為にしなければならない事も。
そしてそれこそが、この優しく貧しい二人に対する最大の恩返しなのだという事も。
だから、遥か遠くの鬼が島の話が漏れ聞こえて来た時、僕は、精一杯の心を込めて頭を下げると、二人に自分の運命を告げた。
「おじいさん、おばあさん。僕は行かなくてはなりません。人々を苦しめる鬼達を退治するため、その為に僕は生まれてきたのです――」
2:.zsphere
鬼が島に向かう旅の道行きで、僕は知っている通りの手続きを済ませた。
犬に、猿に、雉に。きび団子をやって、お供につけたのだ。
けれど僕の心は不安でいっぱいだった。キーキー鳴き続けるだけのお供たち。おとぎ話をなぞるだけの成り行きも不安を増すだけだった。そもそも……。
「大体、なんで犬や猿や雉でなきゃいけないんだ?」
せめて仲間が人間なら、と思って呟いた時、僕の背後に巨大な影が差した。
「知りたいかね?」
振り返ると、妙な格好のおじさんが立っていた。やたらガッチリした体に、禿頭、わずかに生えたヒゲ。そして何より、こっちの世界に来てから初めて見た洋装だ。大仰な黒いマントをつけた、異様に眼光の鋭い男だった。
「え、な……?」
「鬼とは何か、それは一口に言う事はできないがね。様々な要素が時間をかけて混ざり合った集合体だ。しかし、源流をたどって行けば見える事もある。君は“鬼門”という言葉を聞いた事があるだろう?」
「え? えっと、一応……」
「悪しきモノが入ってくると言われる、縁起の悪い方角――北東だな。中国から入って来た概念で、日本では陰陽道などにおいて重んじられた。そして、この鬼門の事は丑寅(うしとら)とも言う。東西南北の方位に、干支を北から順番に配していくと、北東がちょうど丑と寅の間に当たるからこう呼ばれる。鬼が牛の角と虎柄のパンツをはいておるのも、この丑寅にちなんだのだという俗説があるくらいだ」
「は、はぁ?」
「では、だ。仮に鬼が北東にいるとしよう。では、それと対峙する方角には何がいるかね? 真北を子(ね)に、真南を午(うま)とすれば……」
「え、っと……ねうしとらうたつみうまひつじ……“さる”“とり”“いぬ”!」
僕はついてきていたお供たちを見る。猿。雉は鳥、そして犬。
「正確には西南西から西北西にかけてだが、確かに桃太郎のお供が出てくる。昔話といえど、すべてが荒唐無稽なわけではない、そこに論理を見出す事もできるという事だ。しかしそうだとすれば、“桃”太郎とは、そして“鬼”とは何なのか。君の配役が桃太郎であるなら、あらかじめ考えてみるのも悪くないかも知れん」
言って、その人は持っていたステッキをタン! と地面に突きつけた。
僕は恐る恐る聞いてみる。
「あ、あの……あなたは誰なんです?」
「ん? ワシは……なぁに、君と同じ現実から飛ばされたクチのようだ。学者の端くれだな。しかしこうなったのも何かの縁だろう、桃太郎の鬼退治、ワシも同行させてもらうよ」
そう言ってステッキを肩に乗せたその人は、僕なんかよりもずっと強そうだった。思わず、その人の視線に首を横に振ってしまう。
「ダメなんですよ。僕はノビタとか言われてて、いっつも同じクラスの三人組に追い回されてて、ケンカなんかしても絶対勝てないんです。そんな僕に、鬼退治なんて……」
「ふむ」
近寄って来た犬の頭を撫でつつ、男の人は静かに、言葉を選んで言った。
「ケンカというのは、必ずしも力だけでするものとは限らん。桃太郎のお供の犬猿雉に意味があったように、君を取り巻く人や物にも様々な意味が隠れておる。腕っ節が弱くとも、その意味を読み取って身を守るという方法もあるぞ? そら、君のお供は、君の事を気にかけておるらしい」
言われてみれば、犬は僕を見上げて尻尾を振り、猿も僕の服の裾を心配げに引っ張っていた。雉は首をひねって、僕の顔を覗き込んでいる。
「どうかね? これから対峙せねばならん“鬼”にも、そして君自身……“桃太郎”にも隠れた意味はある。それを見届けに行かんかね」
「……はい」
僕は、頷いていた。
「よろしい。では、鬼が島へ渡るとしようか。……ところで」
「はい?」
「ワシの分のきび団子はあるかね?」
髭面のおじさんは、厳かな声でそう尋ねた。
3:zsphere
大柄な謎のおじさんと、鬼が島に立つ。ごつごつと牙を剥くような岩肌、ごうごうと鳴る風の音。僕はもう既に、逃げだしたい気分になっていた。
けれどおじさんは、微塵も恐れを見せずに、目の前の洞穴に入って行こうとする。
「あの、本当にここに入るんですか?」
「ワシは職業柄、こういう穴には馴染みがあってね。ほら行くぞ、桃太郎が行かねば話が進まん」
恐る恐る、口をあけた闇の中へ入って行く……。不安定な足場に気を取られた瞬間、前方の闇の中から、大きな手が僕めがけて突き出されてきた。
「う、うわっ!」
剛毛に覆われた赤く太い手。鋭い爪が僕の顔をえぐろうとした瞬間、おじさんの持つ杖が強くその指を打ちつけていた。
けれど手は一本じゃない。次々と闇の中から突き出されてくる!
「剣を振れ!」
「わあああああっ!」
夢中になって剣を振り下ろす。狙いも何もつけていないはずなのに、その一振りで鬼の手は怯えたように後退した。
「え?」
「それで良い。桃太郎が桃から生まれたのは伊達ではない。元々中国において、桃は辟邪、魔除けの効能ある植物だった。実の形が女陰に似る事から、生命力の証と考えられたのだ。道教においては桃の木で魔除けの札を作る。日本でも黄檗宗の寺院などには桃の木の木札が据え付けられておる」
怯みを見せた鬼の腕を次々に叩き落としながら、おじさんはどんどん洞窟の奥へ進んでいく。
「前に鬼門の話をしたな。鬼門の文献上での初見はこれも中国の地誌で『山海経』という。そこでは、鬼門とは鬼の出入りする門の事だ。この門は巨大な桃の木で出来ておる……では、その鬼とは何か」
繰り出されてくる腕は、気のせいかどんどん細くなってきている。僕たちを傷つけようとするよりも、むしろなにか助けを求めるように……?
「古代中国において、鬼とは角を持った妖怪の事ではない。死者の霊を意味していたのだよ。たとえばそれは、【魂】という文字に【鬼】の字が含まれていることからも分かるだろう。唐代には鬼話と呼ばれる怪奇小説が多く書かれたが、その中でも死者が描かれた。不慮の死を遂げた者が、今風に言えば一種の地縛霊となって、生者を引き込む。誰かを引き込めば、代わりに自分はその場から離れられるとも言う」
必死に剣を振って、そして僕らは洞穴の奥にたどり着いた。もはや鬼たちの腕はなく。
代わりにそこには、朽ち果てた人骨がいくつか、散乱していた。僕はそれを、呆然と見下ろした。
「じゃあ、これが……鬼?」
「退治するかね? 桃太郎君」
気がつくと、僕のすぐ横に、進み出た雉が、くちばしに小さな花をくわえていた。犬も猿も、静かに頭を垂れている。
僕はゆっくりと首を横に振って――そして雉から受け取った花を、遺体の前に備えた。
静かに手を合わせる僕の様子をしばらく眺めていたおじさんは、不意に財布の中から千円札を一枚取り出して……マッチで火をつけて、燃やし始めた。
「何してるんですか、それ?」
「本当は、実物のお金ではなく専用のものを使うのだがね……紙銭という。こうして燃やしてやると、そのお金は冥界で死者が使えるのだそうだ。中国で広く行われている習俗だが、日本でも沖縄などに同様の風習が残っておる」
僕らはもう一度遺体に手を合わせ、洞窟を出た。
何となく、周囲の景色がぼんやりとしてくる。何となく分かった、桃太郎の世界から、現実に帰るんだ。
「どうかね? 桃太郎君。酒呑童子の説話などでも分かるように、日本においては武士の台頭とともに、鬼は神通力を失い、剣をもって退治され得る賊となっていった。だがそれ以前には、儀式的なコミュニケーションによってしか鬼に対処できない時代もあったのだ。君も、力で叶わないからといって、諦める事はないぞ。まずは相手を知る事からだ」
「はい……」
僕は最後にようやく、少しだけ笑った。身を摺り寄せてくる犬たちの頭を撫でているうちに、周囲を白い光が包み込む。
夢は、静かに消えていった。